<はじめに>
泉鏡花は、維新さ中の明治6年、金沢市を流れる浅野川近くに生を受けました。その生家は今、当時の面影を残し泉鏡花記念館として、金沢市が管理運営しています。
鏡花、こと泉鏡太郎。父は、加賀藩細工方の流れをくむ錺職人。
母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘として、江戸に生まれました。
徳川時代の職人と芸能の血筋を引く鏡花は、文明開化の流れに育つなか幼くして最愛の母を亡くし、明治・大正・昭和初期の三代にわたって、他に類を見ない独自の感性と表現を培いました。
少年時代、尾崎紅葉の「二人比丘尼色懺悔」に心震わせた鏡太郎少年は、東京へ紅葉を訪ね、その後の生涯を定めます。
三島由紀夫をして、「この世とあの世の中庸、天使の世界」と言わしめる独特の文章は、同時代の文学者や画家に影響を与え、その鏡花宗徒と呼ばれる作家たちは、長きにわたって鏡花の著作に色を添え、文化芸術の花を咲かせ続けたのです。
鏑木清方、鰭崎英朋、橋口五葉をはじめ、鏡花が号を授けた小村雪岱ほか、多くの画家たちが鏡花本を飾りました。
芥川龍之介が自害した枕元には、届いたばかりの『春陽堂版 鏡花全集』が置かれていました。
時代は下がり、奄美大島で急逝した孤高の日本画家・田中一村は、ピカソと泉鏡花を敬愛していたようです。
そんな泉鏡花。金沢の鏡太郎少年が東京へ出て、日中戦争が始まる数年前に他界するまで、出版された著作は膨大な量に上ります。
中国をルーツに、日本の千数百年におよぶ世界でも屈指の歴史を持つ出版文化は、明治維新までの長きにわたって、写本と木版摺りを軸とした、巻子(巻物)と、複数の形態を持つ和本との、大きくこの2種類を連綿とつないで来ました。
徳川時代が一新された明治の世は、西洋から様々な文化芸術が輸入されます。出版文化もその影響を大きく受けました。
和本一辺倒だった出版物は、和洋折衷の洋紙仮綴じ本、ボール表紙本、硬表紙洋装本、和紙・正絹表紙木版刷り洋装本、等々多様な変化と広がりを続けます。
木箱や帙・袋のような書物に外装を付けるという伝統も、明治になりカバーや外函などの、書物の保護と装飾を兼ねた日本独自のスタイルを育みます。
鏡花本と呼ばれる一連の著作は、独創的な文体も相俟って、表紙はもとより見返しから口絵や外函、時には挿絵までもが木版画で彩られ、まさに日本が生み出した、世界に誇る超一級の美術品と呼んで過言ではないでしょう。
明治中期から昭和初期までの長きにわたり出版された鏡花本には、維新以降の日本の出版装丁史が凝縮されています。
また直筆原稿に関しては、言霊信仰の強い鏡花は、原稿用紙にはお神酒を注ぎ執筆していました。故、出版社からほとんどの自筆原稿を手元に戻していたため、特に晩年に散逸したものは極僅かです。
鏡花亡き後の昭和17年に、自身が所蔵していた原稿の全て、凡そ180点が慶應義塾大学図書館に寄贈されたため、幸いにも戦災を逃れ今も多くが残されています。
しかし初期作品を中心に不明の原稿類も多く、今後の発見に望みが残ります。
その泉鏡花も戦後は、徳川時代の流れを汲んだ古臭い作家、芝居の原作者としての烙印を押され、長く相手にされない忘れられた作家として不遇な時期を送ります。
そのため、多くの著作は雑書として粗末に扱われました。
昭和40年代になり、三島由紀夫、澁澤龍彦、生田耕作等によって泉鏡花が再評価され、今に至ります。
江戸の流れを受け、明治・大正・昭和と育まれた日本の装丁芸術出版は、太平洋戦争によって消滅しました。
衰退した戦後の出版装丁、デジタル化が進む現代の文字文化、今こそ美術工芸品としての書物を再評価し、次世代へと残すべきではないでしょうか。
私の父・生田耕作は仏文学者として国立大学に勤め、その傍ら書物のコレクターとして生涯を終えました。仏文学・英文学・近代文学・江戸漢詩・書画ほか収集対象は多岐にわたり、長く一公務員であった父にとって、高嶺の花となった鏡花本の収集は困難を極めました。
30年近く前、父は私を洛北鷹峯の自宅へ呼びよせ、所蔵していた数十冊の鏡花本を譲り渡しました。
その日を境に私の日常は、泉鏡花の著作と付帯資料の収集一色となり、生活のほとんどを泉鏡花に捧げます。
初版完本、異装本、直筆原稿、直筆書簡、装丁原画、初出雑誌ほか、下世話で恐縮ですが、費やした費用は洛中に豪邸が建つほどでしょうか。
そんなコレクションも、泉鏡花ご息女・泉名月さん(鏡花没後すず婦人が養女として迎えた、実弟・泉斜汀の娘)とのご縁で、今では金沢市の泉鏡花記念館に、公開資料として収まっています。
長年集めました泉鏡花資料を基に、「鏡花書誌」として紹介させていただきたいと存じます。
解説等に不足な点が残るかと存じますが、逐次追加修正いたしてまいります。
美術工芸品としての書物を、泉鏡花を道標に感じていただければ幸甚です。