「山駕籠に秋風重し…」

江見水蔭氏、本名は忠功、父は岡山藩士江見鋭馬と称し、勤皇家で生前の功により正五位を贈られたが、忠功は早く父に別れ、専ら叔父水原久雄氏の世話で人と為ったので、自分の後年あるは水原の御蔭なりとて、水蔭と号すると称して居る。嘗て大町桂月、巌谷小波の二人とともに杉原重鋼先生の称好塾に学び、互に親しく交はり、水蔭氏は他の二人よりも早く世に出て作家と為り、著作に新聞に雑誌に健筆縦横、奇想髣髴し、明治二年に生れて昭和九年に没するまで、六十六年の一生中の創作は八百余編。古今稀なる大作家なることは、其自伝の自己中心明治文壇史を見れば直ちに首肯せらる。其等の中で最も多くは大橋新太郎氏に依り博文館にて出版せられ、また奇縁なるは上記の大町、巌谷の二人とともに博文館の編集部に入った。而して巌谷とは硯友社員として多年尾崎紅葉の傘下に立った。

これは『大橋図書館特別集書 水蔭作品手澤本集書目録』(昭和11・7・2)へ旧友の坪谷善四郎が寄せた序文の一節である。

もう姿を消してしまったが、十数年前の京都洛北にあった古書店へ、私は足繁く通った時期がある。先代の残された初版本・文芸雑誌・新聞連載小説や自筆類が、あるじの手で少ずつ蔵から持ち出されて薄暗い店内に積まれ、それぞれにつつましい値が付けられていた。森鴎外『かげ草』三千円、伊藤左千夫『野菊の墓』二千円、田村俊子の新聞連載『あきらめ』が三千円など、今では夢のような話だが、当時はこのような店がまだぽつぽつと残っていて格安の珍書にめぐり会え、煤けた店内で一人胸はずませた事もたびたびである。ご主人とご婦人の穏やかな人がらもあり、私はこの店を訪ねるのが何よりの楽しみだった。

いつものように店主との雑談。ふと、書棚の隅に積まれた未整理本の中にある二冊一括りの薄っぺらな仮綴じ本が、私の目に止まった。美麗な木版刷りの表紙には<鏡と剣 水蔭作>(大正二年嵩山堂刊)。その頃の私にとって、江見水蔭は文壇史などの資料で数行の記述を見るのみ。全く興味の無い作家の一人であったが、手にした木版刷り表紙と口絵の美しさ、それに反比例するかのような安値に引かれ、その書を買い求めた。
数日後、ほんの時間つぶしのつもりで表紙を開いた私は、読み進むにつれ、その独特の心理描写と次々に繰りだされる奇妙な展開に引きずり込まれていく。さまざまな出来事に複雑にまといつく登場人物の内面を鮮やかな輪郭へとあざなうスリリングで見事としか言いようのない筆さばきは、明治作家の手によるものとは思えず、その驚きと読後感は今なお印象深く残っており、以来、私の水蔭探求は今でも続いている。

私の父は生前、専門であったフランス文学とは別に、木水彌三郎・山崎俊夫・山田一夫など、多くの秀作を残しているにもかかわらず、なぜか近代文学史から記述がこぼれ落ちてしまった<埋もれた作家>の紹介にも努めていた。その父と数年前に進めていた二つの企画がある。
まず一つは<絵本鏡花コレクション>。これは泉鏡花の作品を、初出の新聞・雑誌に掲載された口絵・挿絵とともに一冊にまとめるというもの。
そしてもう一つの企画が<忘れられた名作選集>である。これは、今ではほとんど見向きもされなくなってしまった戦前の優れた作品を逐次刊行していく予定だったが、父の死によって中断余儀なくされ、その後は資料のホコリをはらうことも無かった。今、数年ぶりに手にしたそのファイルを眺め、時には一献かたむけながら、ああだこうだとやりあった思い出とともに、一行一行が感慨深い。
リストに記された十数作品中、最初の配本予定だったのが『鏡と剣』江見水蔭で、すでに編集にもとりかかっていた。さらには村井弦斎『子猫』、十一谷義三郎『生活の花』、村上浪六『奴の小萬』、長田幹彦『旅役者』、薄田泣菫『落葉』、田山花袋『残雪』へと続くはずであった。それとは別に水蔭著作選集の上梓も検討していたが、昨今の出版事情もありもはや幻の企画である。
ひょっとすとこれは、これから記す水蔭氏の背負った運命の余波であろうか。

江見水蔭、この忘れられた作家は、「生きて行くためには通俗に走った。糊口を過すためには何でも書いた」と自身が晩年に語っているように、ある時期から大衆小説へと傾き、文壇の外へと押しやられて行った人である。
それを不遇と言うべきか、とまれ水蔭の生涯を語る上で見逃せない出来事が<雨声会>ではなかろうか。読売新聞社の主催で明治四十年にはじまった言わば文芸サロンのような会で、<風流宰相>と呼ばれていた西園寺公望を囲み、当代一流の文士を招いて世の注目を集めたらしい。
この文士番付表ともいえる雨声会の招待名簿に、人気作家であった江見水蔭の名は無かった。人選に当たったのは、当時読売新聞社員だった近松秋江。その経緯については、同じ社員であった正宗白鳥が自著『流浪の人』(昭和26・1河出書房)の中で次のように書いている。

「同じ硯友社の小波眉山などが選ばれるのならば水蔭も仲間に入ってよかった訳なので、これだけは秋江の手落ちであった。故意にやったのではなく、うっかり忘れていたのだ。」

やがて大正から昭和へと、はなはだ水蔭は不遇な後半生を送ることとなる。
されど明治期にはあまたの作品を世に出し、多くの人がその恩恵に浴したはずだ。
吉井勇もその一人であったようだ。吉井勇は、水蔭が明治二十五年に設立した、江水社より刊行の『子桜縅』(こざくらおどし)の月極め読者として水蔭作品意に親しみ、上演された水蔭翻案の悲劇「オセロ」や、水蔭作のいくつかの探検記は忘れることが出来ないと、少年時代を思い出している。

また水蔭にはこんな一面もあった。大変な相撲好きで文士同士の相撲に興じ、江見部屋と称する相撲部屋を作り、国技館で優勝を競うこともあった。その<国技館>の名称も、明治四十二年に最初の相撲場が両国に建設された際、水蔭の書いた祝辞に「それ相撲は国技なり」という文言があり、それを取って付けられたそうである。
私の手元に、そんな水蔭の様子をうかがえる、水蔭が訪問記者に宛てた書簡がある。

「君は手も足も口も相当に活躍する人だ その点は既に僕は認めて居たが、素人相撲談を読んで非常に頭の好いといふ事をも認めた ト今更認めたといふのは僕の頭が悪いのかも知れんが 何しろ自分が訪問記者に接した内で抽出した才能であるといふ事を認識した 提灯をもたれた嬉し紛れにホメルのではないが其処でじゃ 先に背を撫じ後喉を扼せんとす平家のイロハ也さ それ程好い頭を持っているなら何も好んで頭を悪くする必要はあるまいと考へる 益々頭を好くせねばなるまいと思うが如何かね、酒も悪いだろう バクチも悪いだろう、が最も悪いのは細君以外に接するといふ女色だと思うが如何かね まだまだまだそれ以上に面白い面白い面白い事が宇宙にはたくさんあるだろうと思うが如何かね、君は君の適せる技能(長所)を保護しつつ益々、それを発達せしめる為に真面目に読書する考えはないだろうか 口、手、足而して頭と斯う僕は認めていて実際多大の敬服を払って居る君が 今度は腹もある人だと認める光栄に浴したいが如何かね 老婆心で苦言を呈するのも真面目に君の才能に感服して居るからだ」
宛名は渡辺大兄、巻紙に力強い運筆で書かれている。残念なことに封筒はなく委細は知れないが、おそらく明治期後半のものであろう。

斯かる気質の水蔭ゆえに、不遇な晩年を迎えても往年の意気には決して衰えを見せなかった。昭和に入り『硯友社と紅葉』(昭和2・4 改造社)、『自己中心明治文壇史』(昭和2・10 博文館)の出版、さらに平凡社刊『現代大衆文学全集』(昭和2~正続全60巻)への収録によって舞い込んだ元手で全国を巡り、一日に数回の講演と十数幅の揮亳をするという強行軍を続けた。頭陀袋をぶら下げ飄々とした姿で歩きまわった水蔭は、どこへ行っても若き日の愛読者たちに親しく迎えられたようである。

当時の水蔭が、博文館出版部の横田地巴に宛てた書簡(昭和3年7月30日)には、次のような記述がある。

「(前略)平凡社の円本でヤッと一息入れる事が出来ましたが 老生としてはソレよりも昨年の今頃(中略)いろいろの禍が重なった時に尊兄の御尽力で博文館の好意の為に救はれたのがどの位有難いやら知れません それ故に平凡社から入金しても成金風を吹かせる処でなく第一に借金を返へし それから老母の墓石をやっと十三年目で故郷へ建てに行きました(中略)文士よりは講釈師の方がウケます 但し月に一度口がかかるかかからぬかでは めしを食ふ料にはなりませんが人から忘れられないだけ好いかも知れません(後略)

そのころの水蔭を彷彿させる随想が、吉屋信子『私の見た人‐小波と水蔭‐』(昭和38・9 朝日新聞社)の中にある。少々長くなるが抜き書きさせていただきたい。

「京浜線に住居する作家たちの親睦会を開くからと、同じ沿線に住む雑誌記者二、三人の幹事役から勧誘を受けた。(中略)夕刻六時に始まる会合の時刻を過ぎた私は駅を降りると息せき切って会場に急いだ。入り口をのぼるとすぐの広場が会場だったが、さびしく灯ばかり明るかった。幹事役に迎えられて卓子に付くと、そこには先着の二人の老紳士がならんでいられた。その背広姿の一人こそは‐すぐにわかった。私の子供時代に覚えた”お伽の小父さん”の巌谷小波‐もうそのころは白いものが髭にまじっても、変わらぬ端正な顔立ちは少女雑誌の写真でいくたびも見ていたおもかげである。お会いするのはその日が初めてだった。其の隣の和服に袴姿の人はだれか私にはわかりかねた。これも白いもののまじる髪を短く刈り込み、目がややへこみ、渋皮色の無髭のやせた容貌は漢学の教師のような感じでもあった。「江見水蔭先生です」幹事がこう言った時、思わず私は「あっ」と心で驚嘆した。明治文壇の尾崎紅葉を中心に結んだ硯友社時代の作家の一人にその夜はからずも会うとはまったく予想もしなかった私だった。「ぼくの童話で育ったひとたちがこうして小説家になっているのだからな」お伽の小父さんは私を指して水蔭に言われると、「うん、おたがいにそれだけ老人になったな」と水蔭は低い渋い声だった。窓の外は烈しい雨がガラスをぬらしていた。いつまでたってももうほかにはだれも来そうになく、ついに‐巌谷小波と江見水蔭、そして私というまったく時代の断層を置いての妙な取合せとなり、参加者三人、幹事三人という京浜沿線居住作家の親睦会となってしまった。(中略)一人は童話会の草分け、一人は硯友社時代の文献からその名は知られていても私の文学少女期にはすでに文学誌に作品は見当たらなかった。この大先輩の文学者に敬意を表して私は何か話したくてもそのいと口が見つからなかった。(中略)ようやく私が思い浮かべたのはむかし兄のとっていた「少年世界」でたしかに江見水蔭の少年探偵小説を読んだ記憶だった。あいにくその題は忘れたが、少年たちが鍾乳洞の神秘を探る話だった。私はやっと話題がみつかってそれを告げた。(中略)私が帰りかけると、水蔭先生も共に出られて別れぎわに「発掘品は家に少しありますら、そのうち気が向いたら見に‐」と言われて雨の中に古風な二重まわしに高下駄の姿は蹌踉と消えた…”作家”と呼ぶよりも”文士”がふさわしく文学の古武士のような風格だった。

昭和七年十二月より水蔭は自らの手で『水蔭行脚全集』(註1)の刊行を始めた。その奥付にある発行所の所在地は水蔭自宅の住所で、名称は<江水社>。若き日の水蔭が設立し、吉井勇少年が愛読していた『小桜縅』版元の名を再び用いたわけである。さらに頁を進めると広告文中のこんなくだりが目に止まる。

「自費出版です。老文士の最後の努力です。経済の苦しいの勿論です。よろしく御後援を願います。印刷部数少数ですから自然に高値で恐縮。粗製本で御不満でしょうが、其代わり全部書下卸しです。後世には珍書となる見込。- 水蔭冥土の旅が終巻です。」

第一巻「佐渡へ佐渡へ」を皮切りに、「信濃よ信濃よ」「九州と北海道」「十県飛び飛び行脚」「楽行脚苦行脚」「北国中国東国」「瀬戸内と四国」へと足をのばし昭和九年十月二十四日、水蔭の足は四国松山の地を踏み、柳谷村の公会堂での講演を行っていた。そしてその演壇から降りた直後に突然倒れ、松山市内の旅館・城戸屋(註2)へ運ばれる。それから数日間、療養も空しく十一月三日急性肺炎で他郷にて客死。
奇縁にも偶然高知の山奥に隠棲していた吉井勇は、少年の頃には師とも頼んだ水蔭危篤の報に接し急遽馳せつけ、二言三こと話を交わした。前年に亡くなった刎頚の友である巌谷小波を、まるで追うように逝った江見水蔭の死は、小波とは対照的にあまりにも寂しいものであった。明治の人気作家・水蔭の臨終に立ち会った者の中で親近者は駆けつけた妻ひとり。文筆関係者は吉井勇と、松山の日赤病院院長で俳人の酒井黙禅たった二人だけだった。
いま愛読者である私にとって、異郷で死の床にあった水蔭を思うとき、吉井勇がその枕頭に持したことはささやかな救いである。
その吉井勇は後年、水蔭の死について
”いまもなほ思い出つれは胸いたむ旅に果てたる水蔭の死を”と詠み、
これほど深い無常を覚えたことはなかったと回顧している。
死の翌日、松山市内でしめやかな葬儀が執り行われ、その式場でも吉井勇は霊前に歌を捧げた。

「われもまた いずれは旅に 死ぬる身の 涙わりなく 流れぬるかな」
「やすらかに 眠りたまへる おん顔に 沙地浪宅(註3)の 昔おもほゆ」

水蔭自身もまた、冥土の旅となった四国柳谷村で倒れる直前に、その悄然たる晩年を偲ばせる句を詠んでいる。

「山駕籠に 秋風寒し 老行脚」

松山での葬儀の数日後、東京の水蔭宅でも告別式があり、吉屋信子も参列した。その時の模様が前出『私の見た人』の中に記されているので、それを最後に紹介させていただきたい。

「日比谷公会堂で尾崎紅葉から芥川龍之介まで多くの文芸家慰霊祭が催された時の公演者の一人に水蔭が演壇に立ち「私の友人はたいてい死んで今日のように盛大な慰霊祭が行われるを見ると私も早く死にたいと思う」との言葉は凄愴の気さえ含んで……私は思わず涙ぐんだ。
‐昭和八年初夏、御伽講演の旅中に巌谷小波は発病、帰京入院後に辞世の句「極楽の 乗り物や これ桐一様」を残して楽天主義の明るい生涯を終えられた。青山会館の葬儀に参加者約二千名と伝えられた。(中略)水蔭もまた翌年の秋、これも旅先の四国松山で発病‐逝去と報ぜられた。あの文芸家慰霊祭で「私も早く死にたい」との悲壮な言葉を私は思い出して悲しかった。ただいちどあの夜の灯火に会っただけながら私はどうしてもその霊前にお別れのお辞儀をしたくなって南品川のお宅での告別式に出かけた。(中略)文壇人の告別式はたいてい盛んで焼香の列混雑、うしろの人がじだんだ踏んでいるようで、そこそこに香をつまんで抜け出るならいだが、その晩秋の曇り空に老文士水蔭を葬る日はさびしくしめやかだったゆえに、哀悼の思い胸に満ちたのを今も忘れない……

(追記)
本稿校正刷りの段階で、江見水蔭著「自分の手紙は鵺的だ」(『文章世界1-6』明治39年8月 博文館)を入手。その中に次のような記述があった。

<萬一自分が百年の後に大家になって死んだ時に、自分の書簡を公けにする人があったら自分は地下から残念に思ひこそすれ、感謝するやうなことは断じてないと云っておく>

引用書簡文は、構成の都合上残すこととした。泉下の水蔭先生に深く深く陳謝したい。

(註1)
記述の7冊とは別に、死の翌年の昭和十年六月刊行 第八巻「追悼号」をもって終刊となる。

(註2)
夏目漱石(坊ちゃん)が、初めて松山へ赴任した際に泊まった宿で、巌谷小波も松山を訪れた際に泊まった。

(註3)
水蔭が明治29年に移り住み、尾崎紅葉や泉鏡花など硯友社周辺書家も遊んだ相州片瀬の僑居名。片瀬の地が砂原であったこと、それに八笑人の左次郎宅を捩って、石橋思案が名づけた。

(註4)
(註1)の『水蔭行脚全集 追悼号』に、講演内容の全文「硯友社の追悼」あり。

生田敦夫             

浪速書林『江見水陰 特輯』 序文