昭和35年(1960)の夏に私は、南座近くの大和大路四条下がる、料亭の孫として生を受けた。

幼いころの鴨東円山界隈には、クワガタ虫やカブト虫なども見られ、手付かずの自然が多く残っていた。街中を歩めばまだまだ和服の姿が。
欧米の識者たちの尽力で、戦火から奇跡的に守られた京都は空も広く、落ちついた町屋が、市井の暮らしと共に軒を並べていた。
それは東山界隈に限られたわけではない。
千本中立売あたりには、水上勉「五番町夕霧楼」に描かれた妖艶な残り香が、少し西へ向かうと彼方此方から染料の香り湯気が漂う。北へ向かえば其処ここから機織りの音、寺々からは香煙がかすめ、夕暮れには境内の鐘が遠く響いていた。
辻々は碁盤の目、その大通りには路面電車とその敷石が見える。
北へ歩むと、鷹峯の街道筋に軒先の深い町屋が並び、光悦在りし日の面影が色濃く残っていた。

明治大正から昭和へ、人類史上最大の戦争をアメリカに仕掛け、その結果焦土と化した日本の中で、姿を変えず残された京都。
にもかかわらず復興期、一部の政治家と企業との癒着、後のバブル期に於ける伝統的風景破壊、平成から令和へと瞬く間もなく容貌を変え、もはや京都は1000年の重みを失った、形骸の地方都市と言わざるを得ない。

しかし、洛中洛外には今でも数えきれない史跡が残されている。京都に住み仕事もせず生涯をかけての探索を試みても、記録し尽せない数である。どうにかならないものか。

名の知れた名所以外にも、数えきれない旧跡が京都にはまだまだ埋もれている。それを分散整理した図面を作成すれば、地方や外国から訪れる観光の客人を分散させることは可能だと私は思っている。それは、境内を切り売りしたり、貸しガレージを設け食いつないでいる社寺を、健全に後世へ伝えていける技でもある。

辛うじて点在している遺品と静々と残る裏面、こん日も蔓延る汚れた一面をも含めてこそが京都だと、私は思っている。
表面的な麗しさだけでは、京都ではない。

徳川時代の、士農工商と呼ばれる当時の身分制度による差別には、商人の下に置かれた更なる階級の、不遇の人々が存在した。
千年の都として歴史を重ねた京都には、その泥沼の境遇に置かれた人々の集落が各地に点在し、それは明治の一新後も浄化されることなく、縷々なる問題を残している。
そのような地域の数は、国内屈指であることも否めない。

今ではテーマパークと化した京都。市政は見せたくない実態に、コンクリートで蓋を被せようとしている。内に孕む複雑な構造とその真実をも零さず、いまこそ偽りなき正しき全容を記録し、史実を隠さず次世代へと伝える。

それこそが、現代を生きる私たちの責務ではないだろうか。

生田敦夫

玉蘭斎貞秀 木版画「祇園祭礼四条河原之涼」 江戸末期
清瀾「四条河原真景」 文政期

生田耕作 編著「鴨川風雅集」の序より

都市の文化とは、せんじ詰めれば、その都市の風光である。
二百年の昔、安永の頃、京都はすでに<田舎>と言われた。ただしそれは<花ある田舎>であった。すなわち文化ある都会であった。そしてその最も美しい花が、東山・鴨川を含めた洛東一円の比類なく麗しい風致である。この花が萎み去るときは、京都がただの田舎と成り果てる日であろう。
しかるに現在、鴨東にまでもその魔手が及びつつある、産業化・工業化を専らとする京都府・市の行政方針は、<文化都市>京都壊滅の日が間近いことを語っている。京都の近代化が全うされたときは、京都がまったく新しい都市に生まれ変わった日であろう。言い換えれば花のない田舎、他の近代都市群とまったく変わりない、独自の風景文化を失った蕪雑な一地方都市に過ぎない。
近代化は短期間のうちに全うし得ても、天授の風光の上に千年の歴史をかけて徐々に築き上げられた京都文化は、一朝一夕には再建できない。真に京都を愛する市民にとって必要なものは、近代化への願望ではなく、<大いなる田舎者>の矜持(きょうじ)と抵抗ではなかろうか。
京阪電鉄の線路延長、それに伴う「鴨東自動車道路」の敷設、加茂河原の近代パーク化、等々、無学文盲の無粋官僚を頭にいただく、京都府・市政の歴史的風景破壊工作は、まさしく、ナチス政権の「焚書」もその前に顔色ない大犯罪であることを、本書『鴨川風雅集』(おうせんふうがしゅう)の編纂を通じて、世の識者たちの審判に訴えたいと願うものである。

平成二年四月下浣 洛北「双蓮居」にて

<宮 川 町 >

京都花街 宮川筋四町目戸長家文書
(江戸時代中期~明治時代) 生田誠氏 所蔵

 京都五花街の一つとして知られる宮川町。
今もしっとりとした街並みを芸妓・舞妓が歩む姿は、古の京都情緒に満ちた、実に麗しい風景である。

 さてこの宮川町は本来、東川端通りから南、松原通り界隈の旧花街通称であり、宮川は本来鴨川の別称であった。
この地は、花街として寛文年間(1661年~)に、祇園界隈とともに遊興地として開け始めた。寛文9年(1669年)に鴨川筋新堤が築造され、南座裏から団栗ノ辻子までに一丁目ができる。それを機に男色を売る舞台子、陰間を置く陰間茶屋(かげまちゃや、若集茶屋とも)ができ、芝居、お茶屋、料理屋と共に賑わいをみせていた。芝居と若集茶屋がともに賑わいを続けたことが、現在の歌舞伎で、音羽屋・成駒屋などの屋号で呼ばれている所以である。

 また宮川町には江戸時代、物吉村(ものよしむら)と呼ばれた、ハンセン病患者が集団生活する施設(宮川筋5丁目)が、明治維新期ごろまで置かれていた。

 宮川町は維新後も変わらず栄えていたが、太平洋戦争後に衰退、戦前には300件を超えた茶屋の廃業・転業、更には昭和33年(1958年)の売春禁止法(赤線・青線の廃止)によって、大きく姿を変えた。
とはいえ数十年前、私が10代の頃、団栗橋辺りにはまだまだ多くの直引きの娼妓やポン引き老人の姿を見かけたものである。
更には団栗橋の北、鴨川畔には深夜も開けている薬局があり、周囲の目を憚りながら注射器を買いにいくヒロポン中毒者が多くいたことは、よく知られた事実であった。

 その宮川町も、現在は江戸の景色を残す伝統的花街として、新たな風情を伝えている。100年の先、宮川町をはじめ京の町々は、どのような姿となっているのだろう。

<大原女(明治時代)>

<白川女(明治時代)>

おそらく深泥池畔

 大原女は、洛北の大原に住み、薪柴を京の町々に売り歩いていた女性。

 服装は、平家滅亡後に大原へ隠棲した平徳子(建礼門院)に仕えていたいた阿波内侍が、柴刈りなどに出かける際の服装を、大原里人も真似るようになったと云われている。
 紺色衣に御所染めの帯、二巾半から三巾の前だれを腰にあてがい、白の脚絆に甲掛を付け、頭に縫紋様の手ぬぐいを被り、頭上に薪や柴を載せていた。

 白川女は、南北朝時代に、洛北白川扇状地に形成された北白川集落に住む女性が、白川の水を引き込んだ水車を用いて栽培した花々を、京の町々へ売り歩いた。
 現在、大原女は時代祭りの行列にその姿を残しているが、大原女・白川女ともに、今ではその風情は消えてしまった。

 また、京都には洛西高尾ほか、別にいくつかの集落から地産品を売り歩いた女性が存在した。