「落書き入りの『愛草集』」

今、金沢市の泉鏡花記念館に収まっている「生田コレクション」。
生田耕作・生田敦夫の親子2代が収集した泉鏡花資料と詠われている。

生田耕作は、鏡花本や荷風本、露伴本などの近代文学以外にも、専門であった仏文学関連の書籍や、晩年には、中島棕隠ほか幕末の漢詩人書籍、鴨川関連の書画など多岐にわたり収集、資金繰りに四苦八苦していた。
がゆえに、高嶺の花となった鏡花本にはなかなか手が届かず、苦労していたようである。

私は、幼いころに父・耕作と不和になり、30を過ぎるまではシックリとしない歪な関係を続けていた。
そして、凡そ30年前に長年の関係を修復し、以降は父の晩年まで多くの時間を共に過ごすようになったのだが、それは思いのほか短い時間であり名残惜しい。

父とは別に、近代文学や画集などを軸に多くの書籍を収集していたある日、父が私に鏡花本を譲りたいと呼び寄せた。
座敷机を挟んで一冊づつ表紙を開き、渡された書物は凡そ30冊。
その日から、生活のすべてを注いだ私の鏡花本収集が始まった。

当時、修復家・装丁製本家として作業を続けながら、そのアトリエ運営と並行しながら、別の事業を営んでいた私は、収入のほとんどを泉鏡花に捧げた。
初版完本、直筆原稿、書簡、装丁原画、付帯資料、鏡花と記されたものは、紙切れ一つも漏らさず。

さて、父から譲り受けた初版本の中から、ある一冊のこぼれ話。

もう亡くなられたが、大阪駅前第1ビルにある浪速書林の梶原正弘氏。東京神田の玉衛堂書店と東西を分けた、近代文学書籍を中心とした古書店を一代で築いた苦労人である。
生涯巡り合えないような極美完本を発掘し、長年にわたり質の高い古書目録を発行し続け、私もたびたびその恩恵に授かった。
私が目録で注文した書籍を店まで受け取りに行った際に、必ずビル地下の喫茶店でごちそうになり、楽しい話をさせていただいた思い出も懐かしい。
しかし、従業員に対しては大変に厳しく、客が居ようが居まいが関係なく、大声で叱咤する姿を見かけた方も少なくないだろう。
氏とコーヒーを挟んで、
「梶原さんは、社員さんに厳しいですね。」
「いや~、わてヒスでんねん。イラっとすると止められへんのですわ~」
「あそうですか、納得しました(笑)」
実にサッパリとした対応だ。
そんな氏からの依頼で、大阪古書組合の集まりでレクチャーをさせていただいたことも、また懐かしい。

さて、話を本題に戻そう。
数十年も前、泉鏡花が今ほどもてはやされていなかった頃の話である。
父・生田耕作が、その浪速書林で古書を漁っていると、鏡花の袖珍本『愛草集』初版函付き完本が、足元に積み上げられた雑本の中に混ざっていた。
「これは、おいくらですが?」
「ああそれですか。扉に落書きがあるんですわ~ いくらでもいいです。」
確かに扉には墨で書入れ、落書きがある。
[種郎様] [鏡太郎]と。
種郎は、鏡花の大親友笹川臨風。
鏡太郎は、言わずも知れた泉鏡花。
つまり、
泉鏡花『愛草集』函付き初版極美完本。
小村雪岱装丁、木版刷り正絹表紙、天金、木版刷り両見返し・扉
笹川臨風宛て墨書自筆献辞入り、
というわけである。

着流しの袖にその宝物を放り込んで、下駄を滑らせ父は家路を急いだと・・・

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