『中島 棕隠(なかじま そういん)』

亡父・生田耕作より譲り受けた、漢詩軸がある。


江戸時代後期、京都出身の儒学者・漢詩人で、一生仕官せず自由放縦に生きた奇人・中島棕隠の漢詩軸。
鴨川端の銅駝辺りに住み、自家を「銅駝余霞楼(どうだよかろう)」と名付け、門下生を出入りさせていた。

これにあやかって私は、東山の麓一乗寺に住んでいたころ、「裏山鹿楼(うらやましかろう)」という屋号を名乗るようになった。

そのわけは、一乗寺に拙宅を設ける数年前、私は修学院に住んでいた。
それも住所が「官有地」。
つまり宮内庁が管理している、よく分からない場所である。
修学院離宮の中にある林丘寺という門跡寺の境内にある、雲母庵と名付けられた明治時代から残る少々広めの庵を間借りしていた訳である。
どうしてそのような場所に住めたのか、、、長くなって面倒なので省かせて頂きたい。
その雲母庵は、修学院離宮正門の右手から雲母坂へ進み、左手に見える砂利道を進むと門前にたどり着く。
とは言え、複数の柵と皇宮警察の監視下、なかなかたどり着くことは出来ない。
当時の門跡様は90歳を超えた、皇室の方々が京都へ行幸された際、上座でお迎えに成るほどの方だった。

この話は事実無根のたわごとでは無く、私の戸籍を辿って遡れば、この官有地に行き着く。

長々となってしまったが、「裏山鹿楼」の屋号の由来だが、ただ単純に自家用車に乗って林丘寺門前へ、今ではご法度の飲酒運転で深夜にたどり着いた際、ライトに浮かび上がったのが野生の鹿の一家。
うえその背景には紅葉の葉が…
まさに花札の猪鹿蝶。その美しい姿に感動して思い浮かんだのが、後に中島棕隠の「銅駝余暇楼」にあやかった「裏山鹿楼」である。

さて30代のそのころから、私は中島棕隠のこの軸が一番のお気に入りで、ときおり棚から出してきては眺めている。
何度もなんども読み返しながらの一杯。
何にもかえがたい、至福のひとときである。

さて、この漢詩の内容を、簡単に記してみよう。

古今不老者  古今 不老の者
唯有酒窓雲  ただ酒窓の雲あるのみ
博洽学窓後  博洽(はくこう)学窓の後
此名吾独言  この名 われ独り言う

今も昔も、老いず長生きするための一番の妙薬は、
のんびりと窓外の雲を眺めながら、一献傾けることだけ。
世の中の裏もおもても、酸いも甘いも学び知った私。
がゆえに、そう思えるのだ。

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