『かくれんぼ』

『かくれんぼ』

                                              生田 敦夫     

 

比叡の山遠くながめて光悦が

    心ゆたかにありし日おもほゆ

             吉井 勇

 

「もういいかい?…もういい~かい?…」

どこからか 兄の声。

小窓にはレース越しの淡い光、掠める仙花紙の甘い香り。

見上げると、そこには見慣れた色紙が。

 電車のポールの先から

 頼りに緑色の火花のしずくが零れ落ちている晩

 リラの酒場でフランシス・ピカビアとむかい合って

 アルフレッド・クービンの

 “Insekt von Mond”のことを語ってみたい

                              イナガキ・タルホ

 

 薄暗い部屋の隅に積まれた本の陰で、偶然ふれた手触りに幼い胸はときめいた。紙?クロス?革? そっと聞いてみた本の表紙の怪しく冷たい輝き…ガラス!

 

 私の心象に焼き付いた、遠き日の鮮烈なシーン。

 思えばこの時が、それまで私にとって単なる物でしかなかった書物が、まどろっ子しい“何か”を醸す萌芽だったのかも知れない。

 あのとき手にした本のタイトルは、遠い記憶の糸をたぐり寄せても思い出せない。確かに覚えているのは、薄暗い書庫での、手触りと色の放つ強い印象だけで、今でもふとした折に、あの時の本はいったい? と、もどかしくなることもある。このもどかしさが、もしかすると私の“書物”という悪癖の原因なのではなかろうか。

 私は少年時代を、洛北鷹ヶ峯の本阿弥光悦旧居跡近くで過ごした。当時の鷹ヶ峯は、街道に仕舞屋が深い軒を連ね、辺りに広がる田畑や竹林からは、遥か東山の稜線を背にした京の町並みを一望する、風情の残る高台であった。今、お行儀よく立ち並んでいる新興住宅の下には、薄暗い隠れ家をよりどころにした幼い心…寺、墓地、沼、竹林、野いちご、そしてインディアン広場と呼ばれていた草原が埋もれている。

 そんな風景の中で少年時代を過ごした私は、十代のある日、突然降り注いだ出来事によって、自らをを彩っていたすべてを呪い始め、それから蕩児の渦へと落ち込んで行くこととなる。そして、隠れ家のもう一人の主であった父とは、しばしばぶつかり合い、妖しい美のカケラを掘り出したその場所は、父と争う修羅場へと変貌した。父、耕作の『黒い文学館』に収められた日記の「Aの行状につき一家中途方に暮れると。憂慮すべき事態なり。」は、この頃の出来事である。

 その後、二十代も半ばになって、ようやく私は父と打ち解け、生々しい争いの場と化していた隠れ家は、文芸を語らう、かけがえのない空間へと姿を変えて行く。

 のちに贈られた父の著書『書斎日記』に添えられた献詞。

〈十余年前の「A君」に贈る、蕩児帰還を祝して 耕作〉

 ひょっとすると父は、私が幼き日に見た書庫に漂う“得体の知れぬ何か”が、じわじわと私を蝕み、無数のフォクシングを刻みつけて行く事を、実はわかっていたのではなかろうか。

 そんな父は、蔵書を手放すことに潔かった。入手してはみたものの期待ほどではなかった書物や、光彩を放たなくなったものは、折あるごとに新たな客人と入れ替わった。常々、書物は読者から読者へと譲り継がれて行くべきであると語り、多くの蔵書が一部の研究者たちのためだけに資料館へ寄贈され、コレクションの剥製と化している現実を嘆いた。父にとって蔵書は、ただ無尽蔵に増殖し続けるものではなく、ある一定の枠内で変化を繰り返すものだったのだろう。

 最晩年、死を予感していた父は、入院治療を拒んで自宅へ帰る。そして書庫内の書籍すべての整理に取り掛かった。必要なもの、手放すものを几帳面に分類し、納得行くまで整理し終えて、書庫を眺める父の涼しげな表情に、私は幼い日に触れたまどろっ子しい“何か”の正体を知った。

 その父は今、自宅近くの常照寺で静かに眠る。

 常照寺は父がよく散策に出かけた場所で、時折私も父に伴い境内の小さな東屋で寛いだ、実に思いで深い場所でもある。

 

 余談にではあるが、父の眠る寺は、吉野太夫の墓所として知られている。吉野太夫は、江戸初期に京の遊郭・島原にあって、その名を江戸吉原にまで馳せた名太夫で、本阿弥光悦も、刎頚の友・石川丈山とともに島原の吉野のもとへと通ったらしい。

 丈山は晩年、比叡の麓一乗寺に詩仙堂を構えて隱棲、鷹ヶ峯の光悦と一乗寺の丈山はお互い、寂しくなると庭で火を焚き、京の都を挟んでその煙で知らせ合ったという。

 三年前の秋、私は石川丈山の眠る詩仙堂のすぐ傍に移り住んだ。

 あにはからんや。

 よわい四十を過ぎた拙宅に、幼き日の隠れ家があろうことを、『黒い文学館』のAを知る、いったい誰が予測し得た事か。

 そして今、私は書斎の窓から、遥かな日に隠れ家のあった鷹ヶ峯を眺めている。

 奥の部屋からは、無邪気に遊ぶ息子達の声が。

 「まあだだよ…まあだだよ…」

                   

      〇大阪古書研究会『萬巻』10号 序文、平成14年(2002年)5月1日

『かくれんぼ』

                                              生田 敦夫

比叡の山遠くながめて光悦が

    心ゆたかにありし日おもほゆ

             吉井 勇

「もういいかい?…もういい~かい?…」

どこからか 兄の声。

小窓にはレース越しの淡い光、掠める仙花紙の甘い香り。

見上げると、そこには見慣れた色紙が。

 電車のポールの先から

 頼りに緑色の火花のしずくが零れ落ちている晩

 リラの酒場でフランシス・ピカビアとむかい合って

 アルフレッド・クービンの

 “Insekt von Mond”のことを語ってみたい

                              イナガキ・タルホ

 薄暗い部屋の隅に積まれた本の陰で、偶然ふれた手触りに幼い胸はときめいた。紙?クロス?革? そっと聞いてみた本の表紙の怪しく冷たい輝き…ガラス!

 私の心象に焼き付いた、遠き日の鮮烈なシーン。

 思えばこの時が、それまで私にとって単なる物でしかなかった書物が、まどろっ子しい“何か”を醸す萌芽だったのかも知れない。

 あのとき手にした本のタイトルは、遠い記憶の糸をたぐり寄せても思い出せない。確かに覚えているのは、薄暗い書庫での、手触りと色の放つ強い印象だけで、今でもふとした折に、あの時の本はいったい? と、もどかしくなることもある。このもどかしさが、もしかすると私の“書物”という悪癖の原因なのではなかろうか。

 私は少年時代を、洛北鷹ヶ峯の本阿弥光悦旧居跡近くで過ごした。当時の鷹ヶ峯は、街道に仕舞屋が深い軒を連ね、辺りに広がる田畑や竹林からは、遥か東山の稜線を背にした京の町並みを一望する、風情の残る高台であった。今、お行儀よく立ち並んでいる新興住宅の下には、薄暗い隠れ家をよりどころにした幼い心…寺、墓地、沼、竹林、野いちご、そしてインディアン広場と呼ばれていた草原が埋もれている。

 そんな風景の中で少年時代を過ごした私は、十代のある日、突然降り注いだ出来事によって、自らをを彩っていたすべてを呪い始め、それから蕩児の渦へと落ち込んで行くこととなる。そして、隠れ家のもう一人の主であった父とは、しばしばぶつかり合い、妖しい美のカケラを掘り出したその場所は、父と争う修羅場へと変貌した。父、耕作の『黒い文学館』に収められた日記の「Aの行状につき一家中途方に暮れると。憂慮すべき事態なり。」は、この頃の出来事である。

 その後、二十代も半ばになって、ようやく私は父と打ち解け、生々しい争いの場と化していた隠れ家は、文芸を語らう、かけがえのない空間へと姿を変えて行く。

 のちに贈られた父の著書『書斎日記』に添えられた献詞。

〈十余年前の「A君」に贈る、蕩児帰還を祝して 耕作〉

 ひょっとすると父は、私が幼き日に見た書庫に漂う“得体の知れぬ何か”が、じわじわと私を蝕み、無数のフォクシングを刻みつけて行く事を、実はわかっていたのではなかろうか。

 そんな父は、蔵書を手放すことに潔かった。入手してはみたものの期待ほどではなかった書物や、光彩を放たなくなったものは、折あるごとに新たな客人と入れ替わった。常々、書物は読者から読者へと譲り継がれて行くべきであると語り、多くの蔵書が一部の研究者たちのためだけに資料館へ寄贈され、コレクションの剥製と化している現実を嘆いた。父にとって蔵書は、ただ無尽蔵に増殖し続けるものではなく、ある一定の枠内で変化を繰り返すものだったのだろう。

 最晩年、死を予感していた父は、入院治療を拒んで自宅へ帰る。そして書庫内の書籍すべての整理に取り掛かった。必要なもの、手放すものを几帳面に分類し、納得行くまで整理し終えて、書庫を眺める父の涼しげな表情に、私は幼い日に触れたまどろっ子しい“何か”の正体を知った。

 その父は今、自宅近くの常照寺で静かに眠る。

 常照寺は父がよく散策に出かけた場所で、時折私も父に伴い境内の小さな東屋で寛いだ、実に思いで深い場所でもある。

 余談にではあるが、父の眠る寺は、吉野太夫の墓所として知られている。吉野太夫は、江戸初期に京の遊郭・島原にあって、その名を江戸吉原にまで馳せた名太夫で、本阿弥光悦も、刎頚の友・石川丈山とともに島原の吉野のもとへと通ったらしい。

 丈山は晩年、比叡の麓一乗寺に詩仙堂を構えて隱棲、鷹ヶ峯の光悦と一乗寺の丈山はお互い、寂しくなると庭で火を焚き、京の都を挟んでその煙で知らせ合ったという。

 三年前の秋、私は石川丈山の眠る詩仙堂のすぐ傍に移り住んだ。

 あにはからんや。

 よわい四十を過ぎた拙宅に、幼き日の隠れ家があろうことを、『黒い文学館』のAを知る、いったい誰が予測し得た事か。

 そして今、私は書斎の窓から、遥かな日に隠れ家のあった鷹ヶ峯を眺めている。

 奥の部屋からは、無邪気に遊ぶ息子達の声が。

 「まあだだよ…まあだだよ…」

 

〇大阪古書研究会『萬巻』10号 序文、
平成14年(2002年)5月1日

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