生田敦夫
父・生田耕作の監修、広政かをる(後に生田と婚姻)出版で、サバト館から世に出た『バイロス画集』が、ワイセツ図画販売容疑のかどで摘発されたのが37年前の1979年(昭和54年)、私が19歳のときである。
摘発のきっかけは、神奈川県内の書店で画集を開いた主婦がその図版に驚愕、県警に訴え出たという実にお粗末な発端である。
そのため出版者の広政は、早朝に踏み込んだ神奈川県警に逮捕拘留され、降り掛かった予想外の展開に憤慨した生田と横浜検察との戦いが始まる。
しかし、このヒステリックで愚かな主婦は、結果的に大きな問題を社会に提起することとなる。
今見れば、エロティックではあるが誰の目にも西洋の美しい芸術品と映るバイロスの画集は、大島渚ほか多くの著名人を巻き込んで大きな論争を巻き起こした。
「ワイセツなぜ悪い」と著名人たちが擁護するなか、生田は「ワイセツでは無く芸術、芸術なぜ悪い」で論争。
社会問題となった論争の果て、その扱いに行き詰った神奈川県警は、不起訴では無く苦肉の<起訴猶予>という弁明のもと広政を釈放することとなる。
だが生田は、この事件に対する京都大学や同僚たちの対応に嫌気が差し、自ら教授職を辞することになる。
そして後の1981年(昭和56年)に、このバイロス事件の顛末記をサバト館が出版した。
さて話しは変わるが、父・生田耕作は、私が11歳のときに洛北鷹ヶ峰の家を出て、神戸阪神御影駅前の広政かをる宅に転がり込んだ。それ以来犬猿の仲となった父と私は、バイロス事件当時も出会えばギクシャクと馴染まない関係が続き、そして20代となった私は、学業に嫌気が差して投げ出し京都から大阪に移り住む。
大阪に移った私は、近畿図書販売という会社に勤め始めた。ご大層なな社名ではあるが、実情はアダルト写真集の撮影から出版・販売までを行う、アリス出版の近畿支社である。
そんなころ、バイロス事件も落ち着いてきた時期に父からの連絡があった。
父は笑いながら、
「敦夫、アリス出版が電話してきて、どうすればワイセツ裁判に勝てますか、て言ってきたわ…」
いやはや、世の中には分別の無い大馬鹿者が絶えないものだ。
だが皮肉にも、この時期からワイセツの概念に変化が現れ、開放の流れへと向かって行く。
そして時代はバブル期へと走り出す。
内外の高級美術品群は、それまでは芸術と無縁だった成金たちのインテリアやアクセサリーと化し、素人が撮影したヌード写真までもが芸術品として扱われ、2流3流の作家が作ったものでさえ高値で飛ぶように売れ、歌手に絵描きや工芸家も一絡げにアーティストという代名詞で仰がれる時代が続く。
日本の津々浦々、猫も杓子も老いも若きもアートアートと語るお手軽な時代の誕生である。































